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【自己紹介】高橋雅人の今まで

僕の名前は高橋雅人。

新潟県十日町市にあるメガネ屋の長男として誕生します。

父から聞いたそんな名前の由来は

 

みやびやか、高貴なというイメージから、いつでも穏やかに落ち着きのある人になってほしいという意味で『雅』を、

人と人とのつながりを大切にしてほしいと『人』の字を付けた。

 

この由来は人生を掛けた僕の課題ですね!

小学生まで

生まれた年の夏の写真
生まれた年の夏の写真

幼稚園の頃の記憶はホントに数えるほどしか残っていません。

近所の友達には女の子が多くて、遊びと言ったら「おままごと」。

その女の子となぜか2人で映画「幽玄道士」を観て、すごく怖かったのは憶えています。

あと覚えている事と言えば、幼稚園のグラウンドでハチに刺されて気を失い、気付いたら職員室で寝ていた、くらい。・・・ホント覚えてないです。

 

小学生になった頃から記憶が少しずつあります。

何よりも、とにかく習い事が多かった。

水泳、書道、スポーツクラブ、剣道、野球、英会話・・・すべてを6年間続けたわけではないですが、当時相当忙しい小学生だったんじゃないかと思います。笑

 

少し大きくなってから母に

「なんでこんなに習い事をさせてくれるの?」

と聞いたら

「初めての子で、何をさせたらいいか分からなかったから実験!」って、実験かい!!となったのはよく憶えてます。

今となっては思わぬところで、いろんな事が活きてますよね!

 

あとはひたすら工作をしていた小学生時代。

NHK「つくってあそぼ」を観てはすぐに段ボールや箱、代わりになりそうなものを用意して作っては壊しを繰り返していました。自宅の下がお店だと、段ボールに困らなかったですからね!笑

今思えば、きっと、おじいちゃんの仕事の邪魔をよくしていたんだと思います。

 

僕は恩師だと思う学校の先生が3人いるのですが、1人目が小学5・6年の担任になってくれた先生でした。

その先生から言われた言葉が今でも頭に残っています。

 

今日から友達にされて嬉しかったこと、良かったなと思うことを誰か1人か2人に発表してもらいます!」

 

これって、当時は凄く面倒だなって思ったけど、今思うとすごく核心をついた課題だったなと思います。

しかも、続けるにしたがって面倒でもなくなって、嬉しかったことを覚えてるようになるんですよね。

 

剣道着姿の記念写真
剣道着姿の記念写真

中学~高校生時代

中学校に入学して、ぼくは「卓球部」に入部しました。

でも、早くも夏ぐらいになって分かってしまったんです。

 

『向いてない・・・』

 

ええ、完全にドヘタクソでした。

ちょっと引き止められたりしつつも、その年の1月には退部していましたからね。

そして、向いてないと気付いた頃と同時に始めていたスポーツが「器械体操」

卓球をやめた後も着地点があったから、迷いもなくやめることが出来たんだな、と思います。

 

そして「体操部」に入部することに。

これが僕にとっては大きな大きなターニングポイントでした!

 

言ってしまえば、僕は後発。

同級生とはいえ、小学生のころから体操をしていた友達が中心になって、立ち上げたばかりの部活です。

この時の心情としては

 

『早くみんなに追いつかなくちゃ!!!』

 

迷惑を掛けちゃいけない、とか焦りもありましたが、こうゆうのって燃えるんです!

今でもそうですが、明確な目標があるとそこに向かって頑張れるんですよね~♪

まるでニンジンをぶら下げられた馬のようだったと思います。

だからメチャクチャ頑張った。

それでも一番最初に出た試合は、跳馬では何とか開脚とびで5点、鉄棒に至ってはぶら下がって降りるだけという最低の演技でお情けの参加点1点。

それが高校も2年になると、跳馬でも鉄棒でも2回宙返りとかしちゃうんだから、5年間あったらホントなんでも出来ると思う。 

 

この体操からは本当に多くのことを学びました。

中でも一番印象に残っているのは『試合期』と呼ばれる試合の約2か月前か行われる過酷な期間。

 

Ⅰ期はとにかくノーミスでそれぞれに課せられたノルマの達成を目指します。一言で言えば体力を付ける時期。

試合でする演技と同じ内容でクオリティーは無視して最後の着地一歩までミスをしてはいけないという鬼のような期間です。しかもノルマが終わるまで帰れないという過酷さから、土日の練習では朝から初めて夕方4時頃まで終われないということもしばしば。後半は腕とか足とかプルプルしてましたね。

 

Ⅱ期は新技を覚える楽しい期間。挑戦することができる時期です。

ここで可能性のある技にチャレンジし、大会でミスなく使えるように特訓をします。

 

Ⅲ期は必要以上に負荷を掛けるというまたも過酷な時期。

簡単に言うと夏に暖房をつけたり、冬に窓を全開で練習をしたり、野次を言われたりと、肉体的にも精神的にもプレッシャーをかけられながら冷静さを保つ、気持ちがブレないように作ります。

 

Ⅳ期は仕上げの時期。

完成度を上げてミスなく、キレイにを目指します。

 

Ⅴ期は調整期で、試合に備えて体調を整えるクールダウンのような時期。

 

今の時代に同じことをしたら問題にされかねないような部活ライフを送っていました。

そんな中で僕の人生を大きく変えた出来事が高校二年の3月に起こります。

 

丁度試合期のⅠ期がはじまった頃。

その日は先生方が会議で体育館に来るのが遅れていました。

準備を終え最初に入った種目「鉄棒」でそれは起こります。

 

最初の車輪を終えツイスト~、えっ、あれっ!?手が動かない・・・

 

『パッキーーーン!!!』

 

体育館中に響き渡る高い音。

気付いたらすぐそこにに同級生の部長が駆けつけていて、周りの人たちは目が点になっている。

僕は何をしているんだろう・・・あっ、骨が折れたんだ。

 

『左橈骨尺骨開放骨折』

 

左前腕の2本の骨を骨折、うち一本は開放骨折をしていました。

すぐに病院に運ばれ緊急手術です。

病院の先生から細菌が入ってしまっていた場合、最悪腕を切ることもあるかもしれないという説明を受け同意。

無事に手術を終えました。

 

その後部活の先生が来てくれて、ひたすら、ただひたすら僕は謝っていました。

最後の大会の直前にすみません・・・と。

 

その時提案されたのが、マネージャーという仕事。

いつも前向きに先を照らしてくれる先生のおかげで、挫けずにすんだ、本当に感謝です!

その後、「スポーツ生理学」「マッサージ」「テーピング」の本を何回も読み直しました。

それと同時に怪我をしていない右手、両足のトレーニングを病院で開始。

僕の最後の目標を「国体予選」に絞り、それまでは選手のサポートに回る決意をします。

 

そんな入院期間中、ほぼ毎日来てくれたのが、骨が折れた時に駆けつけてくれた部長の同級生。

部活で疲れているはずなのにそんな表情を一切見せずに・・・ホント今でも感謝しかないです!!

 

退院後はこっちも本気で勝たせに行くために叱咤激励の日々。

嫌われるの覚悟でめちゃめちゃキツイことをよく言っていたと思います。

みんなの頑張りの結果、県大会2位。

北信越大会でも4位と健闘しました。

 

その後、僕は自分に蹴りを付けるべく「国体予選」に出場します。

怪我をしてから、わずか4か月後のことでした。

結果はヒドイものでしたが、高校時代の体操をスッキリと区切りをつけることができました!

 

2人目の恩師、体操の先生から言われて印象に残っている言葉があります。それが、

 

「いいか、ありがとうだけは言える人間になれ」

当時好きだった「あん馬」
当時好きだった「あん馬」

大学生時代

大学入試センター試験。

高校3年、最初の頃の模擬試験では偏差値38という状態だった事を考えれば、上出来過ぎる結果で試験を終えました。

 

第一志望校はもちろん体操部のある関東の私立大学。学力的に偏差値50位がマックスだろうという事でバランスを見て選んだ志望校です。

同2月、第一志望の大学に無事合格を果たします!

ホッとしたのも束の間、学校まで報告に行ったとき、3人目の恩師から言われた言葉で人生が大きく変わります。

 

「高橋、英語を受けなくていい公立大学があるんだけど、受けてみないか?」

 

そう、僕は「英語」と「国語」がからっきし出来ないという、受験生としては致命的な生徒。

そこに来て英語も国語も受けなくてイイ、得意教科2科目のみで戦える公立大学があるなんて…

 

「やってみます!」

 

即答してました♪笑

最初は記念受験のつもりで受けた試験。

自己採点したら数学が94点、政経87点というまさかの結果で、まさかまさかの合格。

 

実は3週間にも及ぶ入院期間、あまりにもヒマすぎてしていたことがあります。

それが好きな教科の勉強。

ひたすら「数学」と「政経」の問題集を解いてました。担当医だった先生も数学を教えてくれたりと環境にもすごく恵まれていたと思います。

全部繋がっているんですよね。その時は悪いと思ったことも、そのおかげで良いことが起こることがある。

ポジティブに物事をとらえようっていうより、悲観的にならずに前を向いたら道はあるんだ、って気づけることがある。

そんな風に思います。

 

そして大学時代は自動車部という部活に入り、スポーツカーに乗ってジムカーナという競技をしていたりしました。

これもセンスのかけらも感じられなかったけど、仲間がいたから、楽しかったから続けていた、そんな感じです。

この時に高橋歩さんの「アドベンチャー・ライフ」を読んでカクテルにハマり、今も続く趣味のひとつになっています。

 

そんなあまりにも楽しすぎて、夜更かししすぎて、バイトをしすぎて、の一年目の取得単位は前期5単位。

マズイと思って頑張った後期は

・・・9単位。

 

・・・・・・終わった、って感じです。留年だろうなぁ、と思っていたら4年まで留年はない学部という奇跡に救われ、調子に乗った2年目も1年間で24単位。

普通1年で40単位くらい取得しなくちゃならない中、二年間で38単位というアホなことをしていました。

3年目は普通くらいでしたが、一年分のマイナスを解消するために4年時は朝から晩まで毎日学校に通うという始末。

 

バカです、ただのバカだったと思います。

 

ただ唯一の救いは母から大学進学時に言われた言葉

 

「大学では人間関係を作るんだよ」

 

でしたね。

バイトでもガソリンスタンド、ハンバーグ屋、居酒屋、体操のコーチなどのいろんな経験をさせてもらったし、部活でもなかなか経験できないことをたくさんさせてもらいました。

ダメダメなようで、今になってみると、この時の経験が活きてるなぁ、と思うことも正直多いですね!

大学一年の時のフレッシュマンズキャンプでの余興
大学一年の時のフレッシュマンズキャンプでの余興

修業時代

大学4年のある日、カクテルにハマっていた僕は、漠然と『バーテンダーやってみたいなぁ…』というフワフワした就職先の希望を持っていました。

そんなあるとき、アポなしで3人の来客が・・・

 

「はーい!」

 

と、ドアを開けた瞬間

 

「……5分待って!!」

 

足の踏み場のなかった部屋を大急ぎでとりあえず歩けるように!

そこにいたのは父・母・叔父さんの3人。

話を聞いてみると、近くのメガネ屋さんに挨拶に行くんだとか。

 

後日、父から電話があり、

 

『メガネの修業をお願いしたお店に、秋からバイトに行ってもらうから!』

 

「???」

 

『えっ、今やってるバイトは?っていうか修業って何??』なんて考えながら、そこには

 「はい」と言っていた自分がいました。

 

『これが噂に聞く敷かれたレールってやつか…』と当時思ったのをよく憶えています。

その後、大学4年の秋からバイトとしてメガネ屋デビューを果たします。

その修業先のみなさんが本当に良い人たちで、メガネっていうよりもその人達と一緒に働くのが楽しかった。

今になって思えば、働くって何屋になるか?よりも誰と働くかの方が大事なのかもしれませんね♪

お世話になった修業先、群馬県安中市の老舗メガネ店・シティメガネ城田さん
お世話になった修業先、群馬県安中市の老舗メガネ店・シティメガネ城田さん

3年間の修業期間中に、スクーリングでSS級認定眼鏡士の資格を取得。

この修業期間中に妻と出逢い、新潟に戻ってきて結婚し現在に至る、といった感じの人生。

もっといろいろなことがあったし、それなりに大変な経験もたくさんしました。

また、機会があれば綴りたいと思います。